親方通信

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15) 野球に明けくれた少年時代

野球に燃えた少年時代〜学生時代

15) 野球に明けくれた少年時代

そもそも私はどういう人間なのか、そして、小なりといえど、会社のリーダーとなるにふさわしい人間だったのかどうか、正直に私の半生を振り返ってみます。

これからもさらに塗装・リフォーム業界を確かなものにして、誇りを持って働くことのできる職場をつくっていきたいからです。若い人たちに私の会社に入って欲しいのはもちろんですが、
この業界を目指す若くていい人材が多く育ってもらいたい、というのが偽らざる願いなのです。

私は現在、神奈川県中央部の綾瀬、湘南県央エリアを中心に仕事を展開していますが、もともとは、同じ神奈川県でも東の方の横浜市鶴見区で生まれました。東京の羽田から多摩川を渡って神奈川県に入り、川崎、鶴見という京浜工業地帯に育ったわけです。

父親はごく普通のサラリーマンでしたが、両親とも出身は北陸の石川県から出てきたので、私のルーツは石川県にあるともいえます。輪島塗など職人技の光る土地柄ですが、その北陸出身の両親の間に生まれた私が、漆器と外壁との違いはありますが、同じ「塗り」の職人になったというのは、ややこじつけですが、不思議な因縁を感じることがあります。

鶴見で生まれ、その後父親が家を建てて、大和市に移り住むことになりました。大和市は神奈川県の地図を見ると、ほぼ中央に位置し、小田急線と相鉄線が交差する町で、人口20万人ほどの地方都市です。横浜市生まれの私としては、大和市、そしてさらに中学のときに家庭の事情で移り住んだ綾瀬市などは、どうしても〝田舎〟に思えたものです。

しかし、そこがその後もずっと私の第二、第三のふるさと、地元となって、そこでの出会いが、現在の私を育ててくれたかけがえのない愛する地元となっていったのです。
なんといっても少年時代の出会いで、その後も私という人間のバックボーンを作ってくれたのは、野球でした。たまたま近所に住むおじさんに誘われて、大和市の地元の少年野球チームに入ることになったのです。でも、そのチームにはまだ下級生チームはなかったので、小学校一年だった私は下級生チームの仲間集めに走ることになりました。思えばこの頃から仲間を集めてわいわいとやるのが好きだったようです。

その後、中学一年の時に大和市から隣町の綾瀬市に引っ越し、ここでも野球部に入り、大好きな野球をやっていました。野球を通じて出会った仲間や先生方、応援してくれた両親をはじめチームメイトの保護者の方々、この地元の人たちから教わった「勝利への意欲」の重要さが、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれたのです。
当時、水島新司の『球道くん』が好きで、夢中で野球に打ち込んでいたわけですが、高校へ行っても、高校球児の夢の甲子園を目指そうという夢はなく、甲子園には無関心でした。

神奈川県は当時も今も甲子園常連の名門、強豪校がひしめいていたこともあり、甲子園→プロ野球なんていう目標を持つことには無理があったのかもしれません。
当時は中学の野球部にいても、甲子園へ行くなんて目標の夢も持っていなかった私ですが、振り返ってみると、本気になってそういう目標を持ってやっていれば、果たせない夢なんてないんだということを、当時の私に言ってやりたいなと今では思うようになっています。

それで、いま地元の綾瀬で少年野球のチームをつくり指導をしていますが、「夢や目標を持てばできないことはないんだ」ということを子どもたちに伝えたいと思っています。私自身はその時代に野球が好きで一生懸命やっていたけれども、ちゃんとした目標を持ってやっていなかったために、少年時代を思い出し、自分ができなかったことを子どもたちに託して、11年前に硬式野球のクラブチームを立ち上げたんです。楽しんでやらせてもらっているわけです。
中学まで野球一筋だった少年は高校に入ってから、いわゆる不良少年グループとのつきあいができ、私のヤンチャ時代が始まりました。
オートバイに乗って、神奈川県内を走り回って、ここでもヤンキー仲間を集めて、いきがっていました。そしてとうとう、あるトラブルが発生して、結局は野球どころか高校も中退することになってしまいました。

自分としては仲間と一緒に遊んでいることが何より楽しかっただけで、騒音で周囲の方に迷惑はかけたかもしれませんが、不良と言われるような悪いことに手を出したりはしていません
でした。今でいうと、地元が大好きで地元の仲間と遊ぶ「マイルドヤンキー」「ソフトヤンキー」なんて呼ばれる、そのハシリだったかもしれません。